いのりのもり祈りの杜仮称

ダンマパダ「婆羅門の章」

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関西パーリ語実習会 日本語訳

日本語訳の本文

婆羅門の章

SC 383 婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕勤しんで、諸々の欲望を除け。諸々の形成〔作用〕( 諸行 :形成されたもの・現象世界)の滅尽を知って、婆羅門よ、〔あなたは〕存している⸺作られざるもの(涅槃)を知る者として。

SC 384 すなわち、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として、婆羅門が〔世に〕有るとき、そこで、彼の一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る⸺〔彼が、あるがままに〕知っているなら。

SC 385 彼に、彼岸が〔見出されず〕、あるいは、此岸が〔見出されず〕、彼岸と此岸が〔両者ともに〕見出されないなら、懊悩を離れ、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 386 〔世俗の〕塵を離れ〔林に〕坐す瞑想者を、為すべきことを為した煩悩なき者を、最上の義(目的)を獲得した者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 387 日は、昼に輝き、月は、夜に明らむ。士族は、武装者として輝き、婆羅門は、瞑想者として輝く。そこで、覚者は、昼夜全てに、威光によって輝く。

SC 388 悪を拒否した者(バーヒタ)、ということで、「婆羅門(ブラーフマナ)」〔と説かれる〕。平静(サマ)なる性行あることから、「沙門(サマナ)」と説かれる。自己の垢を〔常に〕払っている者(パッバージャヤン)は、それゆえに、「出家者(パッバジタ)」と説かれる。

SC 389 婆羅門を打たないように。婆羅門は、彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放たないように。婆羅門を傷つける者は、厭わしい。彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放つなら、彼(婆羅門を打つ者)よりも、厭わしい。

SC 390 すなわち、諸々の愛しいものから慎みの意図あるとき、婆羅門にとって、このことは、少なからず、より勝っている。そのたび、そのたびに、害する意が退転することから、そのたび、そのたびに、苦しみは、まさしく、静まる。

SC 391 彼に、身体( 身 )と言葉( 口 )と意( 意 )による悪行が存在しないなら、三つの境位(身・句・意の三業)によって統御された者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 392 彼から、正等覚者によって説示された法(真理)を識知するなら、謹んで、彼を礼拝するがよい⸺婆羅門が、祭火に捧げものを〔献じる〕ように。

SC 393 諸々の結髪にあらず、氏姓にあらず、出生にあらず⸺〔彼が〕婆羅門と成るのは。彼において、かつまた、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、彼は、清らかな者であり、そして、彼は、婆羅門と〔成る〕。

SC 394 思慮浅き者よ、あなたにとって、諸々の結髪が、何になるというのだろう。あなたにとって、皮衣が、何になるというのだろう。あなたには、内なる収め取り(執着)がある。〔あなたは〕外に〔見てくれを〕繕っている。

SC 395 糞掃衣(ぼろ布)を〔身に〕付ける人を、痩せ細り〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がった者を、林のなかで、独り、瞑想している者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 396 そして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、「婆羅門」と説かない。彼が、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、「ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)」という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 397 一切の束縛するものを断ち切って、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 398 紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二の邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 399 罵倒を、さらに、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 400 忿激せず、掟ある者を、〔渇愛の〕増長なく、戒ある者を、〔自己が〕調御され、最後の肉体ある者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 401 蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 402 彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろした者であり、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 403 深遠なる智慧ある者にして思慮ある者を、道と道ならざるものを熟知する者を、最上の義(目的)を獲得した者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 404 在家の者たちと交わらず、さらに、同様に、家なき者たちと〔交わらず〕、家なくして行く、少なき欲求の者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 405 動くものたちにたいし、さらに、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 406 〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 407 彼の、そして、貪欲( 貪 )が、かつまた、憤怒( 瞋 )が、〔我想の〕思量( 慢 )が、さらに、〔虚栄の〕偽装( 覆 )が、芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように打ち倒されたなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 408 粗野ではなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それによって、誰であれ、傷つけないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 409 彼が、この〔世において〕、あるいは、長いものも、あるいは、短いものも、微細なるものと粗大なるものも、浄美なるものと浄美ならざるものも、世において、与えられていないものを、〔何ひとつ〕取らないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 410 この世において、さらに、他〔の世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見出されないなら、願求なき者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 411 彼に、諸々の〔生存の〕基底( 阿頼耶 :執着)が見出されず、〔一切を〕了知して、懐疑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 412 彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 413 月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、清らかな信ある、濁りなき者を、生存の愉悦が完全に滅尽した者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 414 彼が、この障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく懐疑なき者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 415 彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 416 彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を打破して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 417 人間の束縛を捨棄して、天の束縛を超え行ったなら、一切の束縛による束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 418 そして、歓楽を、さらに、不満を、〔両者ともに〕捨棄して、〔心が〕清涼と成った者を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき者を、一切の世を征服する勇者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 419 彼が、有情たちの死滅を、さらに、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 420 天〔の神々〕たちが、音楽神や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 421 かつまた、過去に、かつまた、未来に、かつまた、〔その〕中間(現在)において、彼のものが、何も存在しないなら、無一物の者であり、無執取の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 422 〔勇猛果敢な〕雄牛たる最も優れた勇者を、〔一切の〕征圧者たる偉大なる聖賢を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を⸺わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

SC 423 彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり、一切が完成された完成者を、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

婆羅門の章が第二十六となり、〔以上で〕終了となる。

これまでに、全て〔の章〕の最初のものとなる対なるものの章において、十四の事例があり、怠らないことの章において、九つ〔の事例〕があり、心の章において、九つ〔の事例〕があり、花の章において、十二〔の事例〕があり、愚者の章において、十五〔の事例〕があり、賢者の章において、十一〔の事例〕があり、阿羅漢の章において、十〔の事例〕があり、千の章において、十四〔の事例〕があり、悪の章において、十二〔の事例〕があり、棒の章において、十一〔の事例〕があり、老の章において、九つ〔の事例〕があり、自己の章において、十〔の事例〕があり、世の章において、十一〔の事例〕があり、覚者の章において、九つ〔の事例〕があり、安楽の章において、八つ〔の事例〕があり、愛しいものの章において、九つ〔の事例〕があり、忿激の章において、八つ〔の事例〕があり、垢の章において、十二〔の事例〕があり、法(正義)に依って立つ者の章において、十〔の事例〕があり、道の章において、十二〔の事例〕があり、雑駁なるものの章において、九つ〔の事例〕があり、地獄の章において、九つ〔の事例〕があり、象の章において、八つ〔の事例〕があり、渇愛の章において、十二〔の事例〕があり、比丘の章において、十二〔の事例〕があり、婆羅門の章において、四十〔の事例〕があり、ということで、三百と加えて五つの事例がある。

〔そこで、詩偈に言う〕「四百二十三〔の詩偈〕を有する〔聖典〕が、四つの真理の分明者(ブッダ)によって、そして、三百と加えて五つの事例のために現起された」と。

ダンマパダにおける諸章のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「対なるものと怠らないこと、心、花、愚者とともに、賢者、阿羅漢、そして、千、悪があり、棒とともに、それらの十がある。

老、そして、自己、そして、世、覚者、安楽があり、そして、愛しいものとともに、忿激、そして、垢、法(正義)に依って立つ者があり、道の章とともに、〔合わせて〕二十がある。

雑駁なるもの、地獄、象、渇愛、そして、比丘、婆羅門があり、これらの二十六の章が、太陽の眷属(ブッダ)によって説示された」〔と〕。

諸々の詩偈のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「対なるものには二十の詩偈、怠らないことには十二、心の章には十一、花の章には十六〔の詩偈〕が〔有る〕。

そして、愚者には十六の詩偈、賢者には十四、阿羅漢には十の詩偈、千には十六〔の詩偈〕が有る。

悪の章には十三、そして、棒には十七、老の章には十一、自己の章には、それらの十〔の詩偈〕が〔有る〕。

世の章には十二、覚者の章には十三、そして、安楽には、さらに、愛する者の章には、十二の詩偈が有る。

忿激の章には十四、垢の章には二十一、そして、法(正義)に依って立つ者には十七、道の章には十七〔の詩偈〕が〔有る〕。

雑駁なるものには十六の詩偈、地獄には、さらに、象には、十四、渇愛の章には二十四、比丘の章には二十三〔の詩偈〕が〔有る〕。

最上の章たる婆羅門には四十一の詩偈が〔有る〕。四百の詩偈が、さらに、また、他に、二十三〔の詩偈〕が、ダンマパダ集成において、太陽の眷属によって説示された」と。

ダンマパダ聖典は〔以上で〕終了となる。

この杜による要点

本文の下の「要点」は、パーリ語本文と対訳を参照し、この杜が自分の言葉でまとめたものです。訳文の引用ではなく、読み方の一つの手がかりとしてお読みください。語の解釈が複数ある箇所では、掲載訳と要点の読み方が異なることがあります。

対応する本文へ 聖者よ、励んで欲の流れを断ち、欲を払いなさい。条件によって生じるものの尽きることを知り、条件で作られない境地を知る人であれ。

対応する本文へ 二つのあり方を究めて向こう岸へ至った聖者は、よく知ることによって、あらゆる束縛を尽くす。

対応する本文へ 向こう岸もこちら岸もなく、どちらもない人、悩みを離れ束縛を離れた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 汚れを離れて坐し、瞑想し、なすべきことを終え、煩悩がなく、最高の目的に達した人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 太陽は昼に輝き、月は夜に輝く。武人は武具で輝き、聖者は瞑想で輝く。目覚めた人は昼も夜も威光で輝く。

対応する本文へ 悪を退けた人だから聖者、平静な行いだから修行者、自分の汚れを払う人だから出家者と呼ばれる。

対応する本文へ 聖者を打ってはならず、聖者も打った人に怒りを向けてはならない。聖者を傷つける人は恥ずべきだが、怒りで返す人はさらに恥ずべきである。

対応する本文へ 愛しいものから心を慎むことは、聖者にとって大きな徳である。害する心が退くたびに、苦しみは静まる。

対応する本文へ 身体と言葉と心による悪い行いがなく、この三つを慎む人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 正しく目覚めた人の説いた真理を教えてくれた人を、つつしんで敬え。祭司が祭火に供物を捧げるように。

対応する本文へ 結った髪でも家柄でも生まれでも聖者にはならない。真実と教えのある人が、清らかな人であり聖者である。

対応する本文へ 思慮の浅い人よ、結った髪や皮衣が何になる。内には執着を抱えたまま、外見だけを繕っている。

対応する本文へ ぼろ布をまとい、痩せて血管の浮き出た身で、林の中で独り瞑想する人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ バラモンの家に生まれていても、執着があれば真の聖者とは呼ばない。何も自分のものとせず、つかみ取らない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ すべての束縛を断ち切って思い悩まず、執着を越え、束縛を離れた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 怒りの紐と渇愛の緒を断ち、煩悩の手綱と誤った見解の綱を断ち、無明の閂を引き抜いて目覚めた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 罵りも殴打も縛めも怒らずに耐える、忍耐の力を軍勢とする人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 怒らず、掟を守り、渇愛を増やさず、戒を守り、自分を調え、最後の身にある人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 蓮の葉の水滴のように、錐の先の芥子粒のように、欲望に染まらない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ この世で自分の苦しみの尽きたことを知り、重荷を下ろし、束縛を離れた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 深い智慧と思慮があり、道と道でないものを見分け、最高の目的に達した人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 在家とも出家とも馴れ合わず、家を持たずに歩み、欲求の少ない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 動くものにも動かないものにも、すべての生き物に武器を置き、殺さず、殺させない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 敵意ある人々の中で敵意なく、武器を取る人々の中で安らぎに至り、執着する人々の中で執着しない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 貪りと怒り、慢心と人を軽んじる心が、錐の先から芥子粒が落ちるように落ちた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 荒くなく、意味のはっきりした真実の言葉を語り、誰も傷つけない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 長いものも短いものも、小さいものも大きいものも、美しいものもそうでないものも、与えられていないものは何も取らない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ この世にも来世にも願望がなく、求めるものがなく、束縛を離れた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 執着がなく、よく知ることによって疑いを離れ、不死の境地に達した人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 善にも悪にも執着を越え、憂いなく、塵を離れた清らかな人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 月のように汚れなく清らかで、澄んで濁りがなく、繰り返し生まれることへの執着が尽きた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 険路と悪路と輪廻と迷いを越え、流れを渡って向こう岸に至り、瞑想し、動じず疑わず、執着なく安らぎに至った人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 欲望を捨てて家なく歩み、欲望と迷いの生存が尽きた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 渇愛を打ち砕いて家なく歩み、渇愛と迷いの生存が尽きた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 人間の束縛を捨て、天の束縛も越えて、あらゆる束縛から離れた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 楽しみも不満も捨てて心が涼しくなり、頼るものがなく、全世界に打ち勝った勇者を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 生き物の死と再生をすべて知り、執着なく、善く至った目覚めた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 神々も音楽神も人間も、その行方を知ることができない、煩悩の尽きた人格完成者を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 過去にも未来にも現在にも、自分のものが何もなく、何も持たず執着のない人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 雄牛のようにすぐれた勇者、勝利を得た偉大な賢者。動じず清められ、目覚めた人を、私は聖者と呼ぶ。

対応する本文へ 前世の住まいを知り、天と悪い境遇を見、生の尽きることに至り、知るべきことを知り尽くした完成者を、私は聖者と呼ぶ。

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収録した訳と出典

日本語訳:関西パーリ語実習会(2023年公開版)。公開元:SuttaCentral。全26章・423偈と、収録版の結び・摂頌を掲載。

訳文の文字・補足を保ち、ふりがなをこの杜が読書の補助として添えています。この杜による要点は、訳文と分けて掲載しています。

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