経典の意訳・乙部呑海訳著・世の為社、1931年第3版
仏説盂蘭盆経・意訳(乙部呑海訳)
目連尊者が母を救う道を仏に尋ね、父母や先祖への供養について教えを受ける物語です。乙部呑海による1931年の日本語意訳を、旧字体・旧仮名を読みやすく整理して収録しました。付記の回向は物語と区切っています。続く漢文(原本10〜13コマ)の文字起こしとは別で、宗派共通の読誦本文ではありません。
意訳本文
是の如く私阿難は、
仏様の説法を聞いて居ります。
ある時それは仏様が舎衛国の祇樹給孤独園に在って、
多くの弟子達に、
此の上ない尊き如来の教法を説いて、
私共を導いて居られていた時でした。
その弟子達のうちに目連尊者という世にも稀なる悧発な方が居りました。
夫故私共は之を尊んで大目犍連と呼んでいました。
その目連が始めて六通——即ち天眼通、
天耳通、
他心通、
宿命通、
身如意通、
漏尽通の六つの神通力を得ましたので、
その喜びを亡き父母に告げ、
今迄の育ての恩に報るようと思って、
そこで、
この度得ました通力で、
地獄餓鬼畜生修羅と方々の世間を御覧になりました所が、
驚くここには、
目連の亡き母は、
餓鬼道に生を享けていて、
御飯も食べられずに骨と皮ばかりになって苦しんでいました。
之を見た目連は非常に悲しみました。
早速鉢に御飯を盛ってその亡き母に餉りました。
御母さんは御飯が来たものだから、
左手で鉢をうけて、
右手で中の御飯をつまんで食べようと致しました。
ところが御飯が未だ口に入らないうちに火の団子となるので目連のお母さんは遂とう一口も食べることが出来ませんでした。
孝心深い目連様はこの有様を御覧になって非常に泣き悲しみました。
そして直に仏様の下に馳せ戻って、
精しく一分始終を申し上げました。
仏様は申されました。
それは、
お前の亡き母は前世の深き罪罰によって、
斯の如き餓鬼道の苦しみを嘗めているのである。
この業報の大法則は決してお前一人の力でドウするわけにも行かぬ。
汝如何に孝順にして声天地を動かすと雖も、
天神・地祇・邪魔・外道・道士・四天王神も亦奈何ともする能わざる所のものである。
之は只々衆僧威神の力によるの外はないのである。
世には前世の業報とは言い乍ら、
斯く哀れな者が多いによって、
我は今その救済法を説いて、
一切の憂苦を離脱さしたいと思う。
そう前提されまして、
仏様は目連尊者に向って更に言いました。
七月十五日、
僧自恣の日、
これは九旬の安居が終って、
その会中に在った坊さん達が、
思い思いに、
自分の行動の善し悪しを批評したり、
又反省したりする日である。
その日に七世を遡った昔の先祖や、
また現在の父母が前世の悪業によって、
厄難の中にいる者の為に、
沢山のうまいもの乃ち棗・杏・桃・李のような五果や、
澡手・洗足・沐浴の具や、
又香や油や燈燭、
拝敷蒲団やこの世にありとあらゆる善美と思うものを盆中において、
十方の偉い坊さん達に供養しなさい。
この七月十五日乃ち僧自恣の日は、
一切の聖衆、
或者は山間に在って仏の聖行である禅定をしてるものもあるし、
又或者は四道果といって、
予流・一来・不還・無学の羅漢果を得業する者もあるし、
又或者は、
樹下に在って仏行である経行というものをやってるものもあるし、
又或者は六神道を自在に得て、
声聞・縁覚の人達に苦集滅道の四諦の理や、
十二因縁の道理を説いて、
教化するものもある。
あるいは、
十地の菩薩大人、
権現の比丘、
大衆のなかに在って、
皆同一心となって、
供養の鉢多羅飯を受けて、
清浄の戒を具足するものもある。
これ等聖衆の為して居るその道行というものは実に其の徳大海の汪洋たるにさも似たりと讃嘆出来る程である。
それ故、
これ等自恣の日の僧衆に、
供養する者は、
その父母、
六親眷属が、
地獄餓鬼畜生の三塗の苦を解脱することを得て、
衣食自然に備わり、
安穏になることが出来るのである。
乃ち父母が現在に生きて、
ましまさば、
その父母達は福楽百年なるべく、
又過去七世の父母(若し地獄餓鬼等にありとも)は天上華光の世界に生れ代ることが出来るのでもある。
恁う仏様は説いた後、
更にそこに、
聴聞していた沢山の聖衆に向って厳然と仰せられました。
皆の衆よ、
供養を受ける時は、
先ずその施主家の心持を汲んで、
その心持を呪願せねばならぬ。
例えば目連の場合ならば、
その目連の亡き母、
及び七世の父母の為に、
自分等は彼等と一緒に尊き禅定を修している。
乃ちその禅定力によって彼等は救われるであろう。
どうか恁うありたいものだと、
こう呪願して後、
供養を受けるのである。
そしてその食物を受けたなら先ずそれを仏前に供え塔寺の中にあってもやはり仏前に供え、
そして衆僧の呪願終った後に自ら供養の食を受けるのである。
恁う御釈迦様が述べ終った時、
それを聴聞していた目連比丘や、
その他の御弟子達(但し何れも覚りを開いて菩薩の位に入ってる者)は皆非常に喜んで、
この御仏の御説法を有難く思うのでありました。
今は泣き悲しんでいた目連もいつか釈然として泣くのを止めました。
恁うした有難い御仏の功力によって、
是の日、
目連尊者の母は永い餓鬼道の苦しみから、
脱れることが出来ました。
目連尊者は、
仏様に言いました。
いま私の亡き母は三宝功徳の力、
衆僧威神の力を蒙ることによって、
この餓鬼の苦しみから脱れることが出来ましたが、
今後一切の仏弟子たるものは、
こうした盂蘭盆の行持を修することによって、
現在の父母や又七世の父母の為に善根を植え、
餓鬼の苦しみから脱れしめることが出来ましょうか、
如何なものでしょう。
仏様は言いました。
目連よ、
お前の質問は大変よろしい。
そのことを今私は言おうと思ってた所である。
先ず聞きなさい。
さて、
比丘、
比丘尼、
国王太子、
大臣、
宰相、
三公、
百官、
下万民庶人に至るまで、
親に孝行せんと思うものは、
皆応に自分を生んで下さった父母や、
また過去七世の父母の為に、
七月十五日(仏歓喜の日、
僧自恣の日)にいろいろのおいしいものを盂蘭盆の中に安置して、
多くの坊さん達に供養するのが法である。
そして、
どうか父上も母上も無病息災で何の苦労もなく、
百年の寿命を保って頂きたい。
又過去七世の父母等にして、
若し餓鬼道にあるならば、
速かにそこを離脱して、
人間や天上界に生れ代り、
永く福楽するのである。
故に是の仏弟子、
孝順を修する者は、
一刻一刻出る息引く息念々の間にも、
常に父母、
乃至七世の父母を憶って、
窮り無きの生涯に入って貰いたいものであると恁う呪願するのである。
毎年七月十五日に心の誠を尽して孝順慈悲の心を以て、
自分を産んで呉れた父母を憶って、
為めに盂蘭盆の行持を修して、
仏様や坊さん達に供養をして、
以て父母長養慈愛の恩に報いなければならんのである。
さればあらゆる仏弟子にして、
斯く父母慈孝の念を憶うものは、
当にこの盂蘭盆の法を修すべきである。
恁う仏様は仰せられました。
時に目連尊者はもとより、
そこに集っていた多くの仏弟子達は、
この尊き御仏の盂蘭盆乃ち救倒懸の説法を聴くことを得て、
非常に喜び、
有難た涙にむせんだことでした。
これが盂蘭盆の因縁であります。
付記・回向(読者心に念ず)
この経を読み又は施本した私は、
その功徳によって、
善根を植え菩提を成就し得るのであるが、
何卒その私の功徳は他の多くの人々の上に回り向って、
その人等の為(利益)になるように、
そして共々に無上のこの仏道を成就したいと願うものである。
国立国会図書館の保護期間満了(PDM)の刊本を原本画像で照合して組版。やさしい説明は本サイトによるものです。
ゆかりの神仏
出典・参考資料
- 国立国会図書館/世の為社・乙部呑海「仏説盂蘭盆経:意訳(1931年・第3版)」(2026-10-18 確認)