いのりのもり祈りの杜仮称

ダンマパダ「愚者の章」

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関西パーリ語実習会 日本語訳

日本語訳の本文

愚者の章

SC 60 〔眠れずに〕起きている者に、夜は長い。〔歩みつづけ〕疲れている者に、〔一〕ヨージャナ( 由旬 :長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)は長い。正なる法(教え)を識知せずにいる愚者たちに、輪廻〔の道〕は長い。

SC 61 〔道を〕歩んでいる者が、もし、自己と同等か、より勝る者に到達しないなら、独り歩むこと( 独行 )を、断固として為すように。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。

SC 62 「わたしには、子たちが存在する。わたしには、財が存在する」〔と〕、かくのごとく、愚者は〔所有の思いに〕打ちのめされる。まさに、自己は、自己のものとして存在しない(思いのままにならない存在である)。どうして、子たちが、〔自己のものとして存在するであろう〕。どうして、財が、〔自己のものとして存在するであろう〕。

SC 63 〔自己の〕愚かさを思い考える、その愚者は⸺彼は、それによって、まさしく、賢者でさえある。しかしながら、〔自己を〕賢者と思量する愚者は⸺彼は、まさに、「愚者」と説かれる。

SC 64 もし、愚者が、たとえ、生あるかぎり、賢者に奉侍するとして、彼は、法(真理)を識知しない⸺すなわち、匙が、汁の味を〔識知しない〕ように。

SC 65 もし、識者が、寸時でさえも、賢者に奉侍するなら、すみやかに、法(真理)を識知する⸺すなわち、舌が、汁の味を〔識知する〕ように。

SC 66 愚者たちは、思慮浅き者たちであり、まさしく、自己を朋友ならざるものとして、〔世を〕歩む⸺〔まさに〕その、辛き果と成る、悪しき行為( 悪業 )を為しながら。

SC 67 それを為して悩み苦しむなら、為したその行為は、善きものではない⸺その〔行為〕の報い( 異熟 )を、泣き叫びながら、涙顔で受けるなら。

SC 68 しかしながら、それを為して悩み苦しまないなら、為したその行為は、善きものである⸺その〔行為〕の報いを、悦意の者となり、機嫌よく受けるなら。

SC 69 〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られない、それまでのあいだ、愚者は、〔自己の為す悪しき行為を〕蜜のように思いなす。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られる、そのとき、愚者は、苦を受ける。

SC 70 月ごとに〔断食苦行の真似をして〕、草の先端で食を受ける愚者⸺彼は、法(真理)を究めた者たちの、十六分の一にも値しない。

SC 71 まさに、〔愚者が〕為した悪しき行為は、〔搾りたての〕乳のように、今日のうちには固まらない。灰に覆われた火のように、〔徐々に〕焼き尽くしながら、その愚者に従い行く。

SC 72 義(目的)ならざるもののために、愚者に知識が生まれる、まさしく、そのかぎりは、〔その知識が〕愚者の幸運を打ち砕く⸺彼の頭を打ち落としながら。

SC 73 〔愚者は〕求める⸺正しからざる者たちの敬愛を。そして、比丘たちのなかでは尊奉を、かつまた、諸々の居住のなかでは権力を、さらに、他者の家々においては諸々の供養を。

SC 74 「在家者たちと出家者たちは、両者ともに、まさしく、わたしの為したことを思い考えよ。諸々の為すべきことや為すべきではないこと(諸々の社会的義務)については、何であれ、まさしく、わたしの支配するものとして存するのだ」〔と〕、かくのごとく、愚者の、妄想と欲求は、かつまた、〔我想の〕思量( 慢 :自他を比較し価値づける心)は、〔自ずと〕増え行く。

SC 75 まさに、他なるものとして、利得を機縁とするものがあり、他なるものとして、涅槃に至るものがある(両者は別個のものである)。このように、このことを証知して、覚者(ブッダ)の弟子たる比丘は、〔自己への〕尊敬に愉悦せず、遠離〔の境地〕を増進するがよい。

愚者の章が第五となり、〔以上で〕終了となる。

この杜による要点

本文の下の「要点」は、パーリ語本文と対訳を参照し、この杜が自分の言葉でまとめたものです。訳文の引用ではなく、読み方の一つの手がかりとしてお読みください。語の解釈が複数ある箇所では、掲載訳と要点の読み方が異なることがあります。

対応する本文へ 眠れない人に夜は長く、疲れた人に道のりは長い。正しい教えを知らない人には、生まれ変わりの道が長い。

対応する本文へ 道を歩む途中で、自分と同等かそれ以上の仲間に出会えないなら、きっぱり独りで歩む。愚かな人との間に、本当の友情は育たない。

対応する本文へ 「子も財も自分のものだ」と思い込んで愚かな人は苦しむ。自分さえ自分のものではないのに、子や財を思いどおりに所有できようか。

対応する本文へ 自分の愚かさを自覚する愚か者は、その点でむしろ賢い。自分を賢いと思い込む愚か者こそ、本当の愚か者である。

対応する本文へ 愚かな人は一生賢者のそばにいても真理を知らない。匙が汁の味を知らないのと同じである。

対応する本文へ 理解のある人は、ほんの短い間でも賢者のそばにいれば、すぐ真理を知る。舌が汁の味を知るように。

対応する本文へ 思慮の浅い愚かな人は、自分を敵に回すように生きている。つらい実りをもたらす悪い行いをしながら。

対応する本文へ やったあとで悩み、報いを泣きながら受けるような行いは、善いものではない。

対応する本文へ やったあとで悩まず、報いを晴れやかに受けられる行いは、善いものである。

対応する本文へ 悪い行いの報いが熟す前は、愚かな人はそれを蜜のように甘く思う。報いが熟したとき、苦しみを受ける。

対応する本文へ 草の先ほどの食事で苦行の真似をしても、愚かな人は、真理を究めた人の十六分の一にも及ばない。

対応する本文へ 悪い行いは、搾りたての乳のようにすぐには固まらない。灰に隠れた火のように、じわじわと愚かな人を焼きながらついてくる。

対応する本文へ 愚かな人が知識を得ても、それがかえって害となり、自分のよいところを損ない、身を滅ぼすと説かれる。

対応する本文へ 愚かな人は、不相応な敬意、修行者の中での地位、住まいでの権力、他家からの供養を欲しがる。

対応する本文へ 「出家も在家も私の功績を認めよ。何をすべきかは私が決める」という愚かな思いと欲と慢心は、ふくらんでいく。

対応する本文へ 利得に向かう道と涅槃に向かう道は別のものである。これを知った覚者の弟子は、尊敬を喜ばず、離れて静まる境地を深める。

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収録した訳と出典

日本語訳:関西パーリ語実習会(2023年公開版)。公開元:SuttaCentral。全26章・423偈と、収録版の結び・摂頌を掲載。

訳文の文字・補足を保ち、ふりがなをこの杜が読書の補助として添えています。この杜による要点は、訳文と分けて掲載しています。

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