ダンマパダ「法に依って立つ者の章」
← 紹介・目次へ関西パーリ語実習会 日本語訳
日本語訳の本文
法に依って立つ者の章
SC 256 すなわち、無理やり義(道理)を導くことで、それによって、法(正義)に依って立つ者と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、義(道理)を、さらに、義(道理)ならざることを、両者ともに〔正しく〕判別できるなら⸺
SC 257 無理やりではなく、正しい法(正義)によって他者たちを導くなら、法(正義)の保護ある者であり、思慮ある者として、「法(正義)に依って立つ者」と呼ばれる。
SC 258 すなわち、多く語るだけで、それによって、賢者と成るのではない。〔心が〕平安で、怨みなく、恐れなき者が、「賢者」と呼ばれる。
SC 259 すなわち、多く語るだけで、それだけで、法(教え)を保つ者と〔成るのでは〕ない。しかしながら、彼が、たとえ、僅かでも、聞いて〔そののち〕、身体によって法(教え)を見るなら、彼が、法(教え)を怠らないなら、彼は、まさに、法(教え)を保つ者と成る。
SC 260 すなわち、彼の頭が、白髪となったことで、それによって、彼は、長老( 上座 )と成るのではない。彼のばあい、年齢を重ねた〔だけのこと〕。〔彼は〕「無駄なる老いぼれ」と説かれる。
SC 261 彼において、かつまた、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、不害があり、自制があり、調御があるなら、彼は、まさに、垢(汚れ)を吐き捨てた慧者であり、「長老」と呼ばれる。
SC 262 言葉遣いのみで、あるいは、蓮華の色艶あることで、嫉妬と物惜〔の思い〕ある狡猾の者が、形姿善き人と成るのではない。
SC 263 しかしながら、彼の、この〔汚点〕が断絶され、根元から殲滅され、完破されたなら、彼は、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を吐き捨てた思慮ある者であり、「形姿善き者」と説かれる。
SC 264 掟なく、偽りを話している者が、剃髪によって、沙門(修行者)と〔成るのでは〕ない。〔悪しき〕欲求と貪欲〔の思い〕に関与している者が、どうして、沙門と成るのだろう。
SC 265 しかしながら、彼が、諸々の微細なると粗大なる悪を、全てにわたり静めるなら、まさに、諸々の悪が静められたことから、〔彼は〕「沙門」と呼ばれる。
SC 266 すなわち、他者たちに〔食を〕乞うだけで、それによって、彼は、比丘(行乞者)と成るのではない。腐臭の法(性質)を受持して〔世に有るなら〕、それだけでは、比丘と成らない。
SC 267 彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、〔両者ともに〕拒否して、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)となり、〔法を〕究めて、世を歩むなら、彼は、まさに、「比丘」と説かれる。
SC 268 迷乱した形態の無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、〔あたかも〕秤を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って⸺
SC 269 諸々の悪を遍く避けるなら、彼は、牟尼であり、それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕「牟尼」〔と〕呼ばれる。
SC 270 すなわち、〔祭祀において〕命あるものたちを害することで、それによって、聖者と成るのではない。全ての命あるものたちを害さないことで、〔彼は〕「聖者」と呼ばれる。
SC 271 さにあらず⸺戒や掟のみによっても、かつまた、あるいは、多聞によっても、さらに、あるいは、禅定( 定・三昧 )を得ることによっても、あるいは、遠離の臥所によっても⸺
SC 272 「凡夫の慣れ親しむところならざる離欲の安楽を、〔わたしは〕体得する」〔と〕、比丘よ、信頼〔の思い〕を起こしてはならない⸺煩悩の滅尽に至り得ていないなら。
法に依って立つ者の章が第十九となり、〔以上で〕終了となる。
この杜による要点
本文の下の「要点」は、パーリ語本文と対訳を参照し、この杜が自分の言葉でまとめたものです。訳文の引用ではなく、読み方の一つの手がかりとしてお読みください。語の解釈が複数ある箇所では、掲載訳と要点の読み方が異なることがあります。
対応する本文へ 力任せや性急な判断で決める人が、正義に立つ人なのではない。道理にかなうことと、かなわないことを見分ける人、
対応する本文へ 強引にではなく、道理に沿って公平に人を導く。道理に守られたその賢い人が、正義に立つ人と呼ばれる。
対応する本文へ 多く語るだけで賢者になるのではない。心が安らかで、怨みがなく、恐れのない人が賢者と呼ばれる。
対応する本文へ 多く語るだけで教えを保つ人になるのではない。わずかでも聞いた教えを身をもって行い、怠らない人が、教えを保つ人である。
対応する本文へ 白髪になっただけで長老になるのではない。年を重ねただけなら、むなしく老いた人と言われる。
対応する本文へ 真実と教えがあり、人を害さず、自制し、心を調えている人こそ、汚れを吐き捨てた賢者であり、長老と呼ばれる。
対応する本文へ 言葉が上手でも、容姿が蓮のように美しくても、嫉妬と物惜しみのあるずるい人は、立派な人ではない。
対応する本文へ 嫉妬・物惜しみ・ずるさを根こそぎ捨て、心の汚れを離れた思慮ある人こそ、立派な人と呼ばれる。
対応する本文へ 掟を守らず嘘をつく人は、頭を剃っても修行者ではない。欲と貪りにまみれた人が、どうして修行者だろう。
対応する本文へ 小さな悪も大きな悪も、すべて静めた人が、悪を静めたことによって修行者と呼ばれる。
対応する本文へ 人に食を乞うだけで比丘になるのではない。濁った性質を抱えたままでは、比丘ではない。
対応する本文へ 善にも悪にもとらわれず、清らかな行いを修め、教えを究めて世を歩む人が、比丘と呼ばれる。
対応する本文へ 迷いの中の無知な人は、ただ黙っているだけで聖者になるのではない。秤を手にするように、賢者として善いものを選び取り、
対応する本文へ 悪を避ける人が聖者である。善と悪の両方をありのままに見分ける人が、聖者と呼ばれる。
対応する本文へ 生きものを傷つける人を、聖なる人とは呼ばない。すべての命を害さないことによってこそ、聖なる人と呼ばれる。
対応する本文へ 戒や掟だけでも、多くの学びだけでも、禅定を得ることだけでも、人里離れて住むことだけでも、
対応する本文へ 「凡人の知らない離欲の安らぎを得た」と安心してはならない。煩悩が尽きていないうちは。
収録した訳と出典
日本語訳:関西パーリ語実習会(2023年公開版)。公開元:SuttaCentral。全26章・423偈と、収録版の結び・摂頌を掲載。
訳文の文字・補足を保ち、ふりがなをこの杜が読書の補助として添えています。この杜による要点は、訳文と分けて掲載しています。